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お茶の歴史

お茶一杯に込められた 先人の知恵と現代への恵み

お茶の歴史は古く、もともと「薬」、特に「解毒剤」として用いられていました。

「お茶を一服」という言葉はこれに由来すると言われています。

先人は、お茶の効能を身を持って体験し、私達に受け継いでくれました。

脈々と続く伝統文化としてのお茶。現代の研究で着目される茶の健康効果や効能。

お茶一杯には、そんな古くて新しい知恵が込められています。

お茶のはじまり

茶の発祥地は、中国と言われています。

今日の漢方薬の基礎を築いたとされる神農帝が、山野を駆け巡り「薬草」をテストするときに、お茶を解毒剤として用いたという一文があります。(中国・出典 神農本草網目)

世界の茶の歴史

お茶は、中国から世界に広まりました。

ヨーロッパに伝わったのは16世紀。中国の広東にやってきたポルトガル人が、最初にお茶を味わった西洋人だと言われています。

17世紀に入ると、アジア交易の覇権を握ったオランダによってお茶がイギリスに輸出されるようになりました。19世紀半ばには、インド、セイロンで生産がはじまり、お茶が世界の隅々にまで普及したのは20世紀に入ってからです。現在ではアフリカや南米でも生産されています。

日本の茶の歴史

日本では、少なくとも奈良時代にはお茶が飲まれていたと考えられます。当初、お茶は大変な貴重品でした。

平安時代、京の町に疫病が流行ったときに、空也上人が、梅干・昆布とともに茶を庶民に振舞って疫病よけとしたという言い伝えがあります。現在でも、正月に無病息災を願い、梅干と結び昆布を入れて茶を飲むことや、節分の夜に豆と梅干を入れて茶を飲むという風習がみられ、これを大福茶[王服茶・皇服茶]とよんでいる地方があります。

お茶が庶民に広まったのは、鎌倉時代に臨済宗の開祖・栄西が、中国・宋から、多くの経典とともに、お茶の種子と飲み方を日本へ持ち帰ったことがきっかけとなりました。

当時のお茶は抹茶に近く、江戸時代に入ってからは煎茶が茶の中心となり、庶民の口にも入るようになりました。

かごしまの茶の歴史

かごしま茶発祥の地~般若寺

かごしま茶発祥の地~般若寺

鹿児島県におけるお茶栽培のはじまりは、鎌倉時代初期に、平家の落人が阿多白川(南さつま市金峰町)にもたらしたという言い伝えや、足利時代に、吉松(姶良郡湧水町)の般若寺に、宇治からの茶種子を取り寄せ、寺の境内にまいて栽培したのが始まりという説などがあります。

江戸時代に入ると、薩摩藩が茶の栽培を奨励し藩内各地で栽培されるようになりました。お茶は藩の専売品の1つとして取り扱われ、米と同じように年貢が科せられていました。

当時の主な産地は、阿久根から吉松にかけての鹿児島県北部地域が中心であり、薩摩藩の地誌「三国名勝図絵(さんごくめいしょうずえ)」では、「茶の名品は吉松、都城、阿久根をもって上品とす。」という記述が残されています。

その後、開国をきっかけとして輸出用の茶葉栽培が盛んになり、薩摩半島南部と曾於市付近で多くの茶畑が開墾されました。

昭和に入ると、県の奨励を受け、紅茶の栽培が試みられますが、戦時体制の強化から定着に至りませんでした。その後、生活の洋風化が進むにつれ紅茶需要が拡大したことから、昭和30年代には再び本格的な紅茶栽培に取り組むこととなり、全国でも有数の紅茶産地となりました。

しかし、昭和40年代には、紅茶貿易自由化に伴い国産紅茶の生産が停止されたことから、紅茶産地から緑茶産地への転換を図ることとなりました。昭和50年代には機械化が大幅に進み、栽培面積も急増しました。

現在では、県内全域でお茶が栽培され、静岡につぐ全国第二位の生産県となりました。

「かごしま茶」として独自ブランドを展開、知名度も高くなっています。

(鹿児島県茶業史より抜粋)


歴史を誇る~牧園の大茶樹

鹿児島県の北部、霧島市牧園町には、古い歴史を誇る大茶樹があります。

この大茶樹は、江戸時代初期に植えられた茶樹(初代)を、明治時代の終わり頃に挿し木をして成長したもの(二代目)です。

大茶樹




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